2010年7月22日木曜日

気になった言葉

連日ツイッターにへばりついていて、なかなかブログを更新しようという気にならなくて困る。いや、別に私が困ることは無いか。
まぁともかく、そのツイッター上でこんな言葉が目に入ってきた。

女の子の扱いはうまくなくていいから、すきな子をしあわせにしたい

なんかいい言葉だなという気がしなくも無いけど、よくよく考えたら全くダメな言葉である。
一応男の立場で吐き出された言葉なのだろう。女の子の扱いは苦手でうまくないと。だけれども好きな子は幸せにしたいと。その心意気やヨシと、まずは言いたい。
だが、その好きな女の子のことをだ、うまく扱えないような、扱うという言葉には語弊があるかもしれないが、うまくできないということを言い訳にして、うまくなくていいから幸せにしたいというのは虫が良すぎるのではないだろうか。
もちろん、人により様々だから、どのように扱ってもらったらいいのかという差はあるだろう。
だからこそ、その好きな相手がどのように扱ってもらったらいいのかをどこまでも研究して、どうしたら喜んでもらえるだろうか、どうしたら嬉しがるのだろうか、どうしたら感動するだろうか、どうしたら感激するのだろうか、なぜ徹底的に研究しないのだろう。なぜ徹底的に聞かないのだろう。

確かに扱いのうまいへたで相手が喜ぶかどうかも別問題ではある。だがへたで、デートのときはいつも相手に迷惑や苦労を掛けてばかり、いつも別れ際にはケンカになってしまう、だなんてそれで相手を幸せにしていると言えるのだろうか。
好きなんだから幸せにしたい。だったら扱いも少しずつではあってもうまくならなければ、本当に好きだと言えないのではないだろうか。

2010年7月15日木曜日

人生観というか死生観

ちょっと理屈っぽくなります(つまり男性向け)。

まず、魂というのが永遠の存在であると仮定します。あくまでも仮定です。あとでそうでない場合も書きます。
プログラム的には
if(魂の存在 == 永遠的)


else


という感じになります。
ということで、永遠的な存在である魂について、少し語ります。

結論から言いますと、神様のような何でもオールマイティを目指すべきです。
しかし、神様と言うと一神教のようなものですと崇敬の対象にしかならないような気もします。なので日本的に多神教なものの考え方でとらえていただきたい。日本的な多神教ということで、仏様も多く出てくるが、とりあえずは我慢していただきたい。
ということで、日本的な神様の最高は何かというと天照大神なわけだが、最高だからといって最良なわけではない。天照大神は太陽神で、それは物凄く偉大なお働きである。
例えば、バイブルを富士山の高さまで積み上げたものと、太陽が1分間地球を照らすのとどちらが功徳が大きいかを考えてみても、圧倒的に太陽の勝ちである。そしてその恵みは地球に1分間なんてケチくさいものではなく、24時間365日常に降り注いでいて、それがもう何十億年と続いているんである。圧倒的に大きくて偉大なお働きである。
だが、大きければいいというものでもない。人の悩みや苦しみといった部分は心の陰の部分でもある。そういった陰に対しては太陽は明るくまぶしすぎる。そういうのには月のほのかな明かりの方が丁度いい。
また大国主のような、またタケミカヅチのような、強さを持っている方がいい場合もある。また住吉のような言霊の素晴らしさを有している方がいい場合もある。日本的な神様の場合、最高神はいるのだけれども、それぞれ働きや役割があり、絶対神というものはいない。
さて、そんな中で何事もオールマイティに素晴らしいというのは何かというと、観音様を挙げたい。観音様は33相に変化して衆生を再度なさろうというお方でもある。それだけ千変万化にお働きになれるということだ。

最初に魂が永遠であると仮定した。
人はなぜ生まれてきたかというと魂の進歩向上発展のためである。であるからこそ、何かしらができるようになると心の奥底から喜びが湧き上がってくる。嬉しくてたまらなくなる。
もしもピアノが弾けたならという歌があったけれども、ピアノが弾けない人が「ピアノができたらいいのにな」なんて思うのはごく普通のことだ。また音楽に興味がなくとも、何かしらの分野で「あれができたらいいのにな」と思うのはごくごく普通のことである。要するに皆なにかしらができるようになりたいと願っているんである。
だが、時間的制約や金銭的束縛や家庭的条件など諸々のことによりできずにいて、あきらめたり単なる羨望の眼差しで終わってしまったりするんである。

魂というのは永遠なものなので、もし今世でやれなかった場合は来世でやり直しになる。ということは、早くにそのことに気がついて、今世できることは今世のうちにやりきってしまったほうがお得だということになる。
だったら、多少辛かろうがなんだろうが、何だこんなもんと言ってやってしまったほうがいい。
そうして進歩向上した分だけ、社会的にもよき影響を与えることができるようになる。それが即ち徳分ということにもなる。

変な話だが、ニートとか社会のクズとか周りに迷惑を掛けているような公害人間というのは、それだけでもう駄目な存在なんである。いかに周りに悪影響を及ぼしているか。それはもう業を積んでいると言わざるを得ない。
そうして徳分と業とが、いわば家計簿とか出納帳とか損益計算書とかと同じように計算され、あの世や来世での待遇というのが変わってくる。それが善因善果、悪因悪果というものである。
ということは、今何かしらの解決できなさそうな大きな悩みとか苦しみを抱えているというのは、前世まででいかに自分が業を重ねてきたかということに他ならない。
であれば、己を鍛え進歩向上発展を旨として生きていくと同時に善行を重ね社会に益することで徳分を積み、さらには業による苦しみを苦しみとせず己を鍛える糧として生きて行けば、必ずや晩年や来世でよくなるに違いない。

だからこそ、究極的な人生の目標は御魂磨きなんである。


さて、今度は逆に魂が永遠の存在でなかったとする。
生まれてから死んで、それでおしまいである。なんと空しいことか。それでも喜びというものはあるだろう。
おいしい食べ物を食べ、いい服を着て、恋愛に励むのもいいだろう。
しかし、それは獣となんら変わるところがないではないか。万物の霊長として生まれてきたその価値は何なのだろう。


実際のところ、魂が永遠のものかどうかはあまり問題ではない。
どっちに考える方がお得な考え方かというので割り切ってもいい。私は前者だと思う。

2010年7月7日水曜日

期日過ぎてた。。。

今度受けようと思っていた試験の、申し込み期日が過ぎてました。。。ちょっとショック。。。