2010年6月24日木曜日

思い出の品

そういえば思い出の品というのが無い。
例えば、ちょくちょく旅行に行くこともあるけれども、お土産はたいていお菓子だったりする。
食べてしまってなくなっておしまい。

昔から何か物を使うというのが勿体無いと思ってなかなか使えなかった。
それで気がつくとなくなってしまう。または、とっておいたそのものが役に立たなくなってしまったりする。もしくは使い方を忘れたり分からなかったりして、結局役に立たなかったりする。
20年ぐらい前から買いあさっていたテレビゲームで「いつか遊ぼう」と思って買っただけというのもある。結局遊ぶことなんか無い。高いお金を出して買ったレーザーディスクも1回か2回見ておしまい。かつては本棚をびっしりと埋めた漫画の単行本。
そういったものも結局は実家に置いてはあるけれども、思い出の品というものではない。

父親が亡くなったのは、確か10歳の頃。享年44歳であった。
その頃までは父親がちょくちょくと写真を撮っていてくれてたが、それ以降は家族の誰が撮るということはなくなっていた。
高校のときに写真部に所属していたが、あまり熱心に部活動をやっていたわけではなく、ただ放課後に集まってはトランプをやっていただけであった。それでも春から夏休み・文化祭までの時期には真面目に写真を撮ったり焼いたりしていた。
しかし、写真を撮っても撮られるということはあまりなったように思う。

アルバムが何冊かたまってはいるのだと思うけれども、いつの頃からか見た覚えが無い。実家のどこかには転がっているのだろう。
昔の恋人と映っている写真もあると思う。とっておいたかどうかは疑問だが。。。
いつしか時代はデジカメに変わり、いまや写メという言葉がデジカメで撮影するという意味合いになってきたように思える。
だが、そのデジカメさえもいまだに持っていないし、携帯にもカメラがついていない。そもそも携帯を持ち歩かなくなった。

まるで思い出を作るのを拒否しているかのようだ。

だがそれはそれでいいと思う。変に思い出の品があると、過去のことを思い出してはじ~んと涙を浮かべたりしてしまうだろう。あの頃はよかった、あの頃は髪の毛もまだフサフサだった、あの頃は○○だったなどなど。。。
だけどもそんなふうにあの頃はと振り返ってばかりいても仕方が無い。今日のことやこれからのこと、来週や来月や来年のこと、そういったことを考えていくようにしたい。
来月からギターを始めたい。バレエなんて始めたら男でバレエなんて数が少ないから花形だな。油絵をするのに、キャンバスに適当に絵の具を塗ったくると、もう印象派の一枚ができあがるな。そんな風に将来のことを明るく考えていたい。

そうして、いざお迎えが来たら、ご先祖さんや神仏が沢山集まってきてご苦労であったな、と言われるようにしたい。そうしたら整理券を配らなくちゃいけないような状態なので、とても過去の思い出を振り返ってる暇は無い。

4 件のコメント:

  1. 思い出を作るのを拒否している・・・・その言葉に、新米カウンセラーとしては興味を覚えます。

    ”もっと、肩の力を抜いていいんだよ”とね^^

              しおん

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  2. しおんさん、こんばんは。
    カウンセラーの資格取得おめでとうございます。

    そうですねぇ。。。
    どうも形に見えるモノにあまりこだわりがなくなったからのような気がします。
    仏教で言う、諸行無常と諸法無我ですね。
    だからか、あまり肩肘張っているという感じはしていないんです。
    時々はナニモノかに噛み付いたりすることはありますけど、基本的には明るくギャグばっかり言って、だけれども知性を磨くということにも燃えているのです。

    1日1日の進み具合はほんのわずかなものでしょうけどね。

    人生の究極的な目的といえば、もう進化しかありません。進歩とか成長とか向上とか発展とか、別の表現でも大意は同じです。
    これに気付かされたのは4年ぐらい前です。そしてますますその意味するところの深さを実感する昨今です。

    そう考えますと、僕なんかまだまだ甘い生き方をしてます。全然足りてないですし、至ってません。

    あ、もちろん反動がくることを計算に入れて、持続可能なムリというのをやってますよ。ムリはムリだからいかん。。。たまのムリはいいかもしれないけども。。。それがいつも続いていたらいかん。。。

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  3. 人生の究極的な目的かどうかは判りませんが、似た様な生き方してますね。私も。

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  4. はい、そう思います。
    だから羨ましくもあります。
    でも人と比べることでもないので、また改めて自分を見直して、足りてないところを伸ばそうと思うのです。

    もし、今の私に神懸ったとしても、学校の生徒を初め数える程にしか影響を与えられません。
    でも、もし総理大臣に神懸ったら、日本や世界のレベルによき影響を与えることができます。
    そして、その総理大臣に知性や教養が無かったらどうなるのか。一般的な知識やお野菜やカップラーメンの値段を知らなかったらどうなるのか。平均的なサラリーマンの年収や食費や家賃を知らなかったらどうなるのか。詩心や絵心や芸術を愛する心や感性がなかったらどうなるのか。

    ある時にはピカソの絵で話ができ、ある時にはシュレーディンガーの猫の話ができ、ある時にはAKB48の話ができ、ある時には美味しい料理の話ができ、ある時には自転車のパンクの直し方の話ができ、ある時には恋愛の話ができる。そうして「オーソレミオ」をイタリア語で歌ったりしたら本当に素敵だと思う。
    より自在に、より自由に、よく柔に、よく剛に。そういう境地を目指しているのです。だから当然終わりはありません。

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