2010年3月18日木曜日

Re 侍魂

歴史上の人物で言えば楠木正成公が当たるかもしれない。そして西郷隆盛。

楠木正成は、湊川の戦いの際、絶対に負けると分かっていたから後醍醐天皇に「一旦は京都から退却しましょう」と上申したにも関わらず、天皇は「天皇が退却だなんて、後ろを見せられるかい」と却下され、あぁどうしようと悩みつつも「天皇のために、朝廷(南朝)のために戦うんだ。それで命を落とすことがあっても、それは天命で仕方ないんだ」と、そういう想いで戦地へと赴いたのです。
本当はもっと深い葛藤と、最期の最後の悟りもあったわけですが、まぁいいでしょう。太平記を読んでください。

西郷隆盛は、元々は大日本帝国陸軍大将である。それが、日本のために西南戦争を起こし、立派になった陸軍の戦いを見て、満足しつつ果てていったのである。
ここにももっとイロイロな戦いもあったのですが、まぁいいです。

この2人に共通しているのは、ちっぽけな我を殺しているところです。そして大義のために命を投げ出して戦ったところです。
なかなかこうはいきません。ボクなんか自分の命は惜しいし、我を捨てるなんてもっとできません。

この捨てることに重きを置いているのが老子です。
「学するものは日に日に益し、道するものは日に日に損す」と言っています。
この学は儒教の学問のことで、仁儀礼知信のことです。それを学ぶことで日々成長しプラスになっていると。
それに対し道は老荘思想のことであり、とにかく捨てることを説いています。言うなれば山奥にこもって仙人みたいな状態です。とにかく捨てる。どんどん捨てる。富も財産も地位も名誉も名声も。するとどうなるか。
「損して損して無為となす。無為にしてなさざるは無し」
無為、すなわち何もかもが自然な状態、人間の手の加わっていないような状態。そうなると何もできないことは無いという状態になる。
これは禅の無の境地と同じことを言っている。そして陽明学では良知と言う。

日本では~道というのがいくつかある。柔道や剣道といった武道。また茶道や華道といった芸術。これらを通して明鏡止水の境地に立つのが一つの到達点とも言える。
「日本の弓術」を書いたヘリゲルによると、師匠の阿波氏は暗闇の中で60m離れた的の真ん中を1発で射抜き、しかも2発目はその1発目の的に刺さっている矢を射抜いたとのこと。これぞまさしく弓禅一如である。

無の境地を得ようとし、静かな場所でだまって座って瞑想に耽る、なんてのはいつまで経っても無の境地には立てない。
現代社会においては、日々の生活の中で、公務員なら公務員、主婦なら主婦、プログラマーならプログラマー、営業員なら営業員という、そういう仕事を持ちながら、少しでも周りによかれという思いを持って生活することに他ならない。
これが動中の静である。

そのためにはどうしても真実の学問が要る。
どうしても学んだ分しか周りによき影響を与えることはできない。自分が苦しんだ分しか周りを救うこともできない。
そして学問を学びつつ、小我を捨てていく。
「武士道というは死ぬことと見つけたり」も同じようなことを言っているわけです。

2 件のコメント:

  1. しおんです。2010年3月18日 19:13

    難しすぎます。「捨てる」のは大好きですが・・・

    「ちっぽけな我」にも振り回されてますねえ。。。

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  2. しおんさん、こんばんは。

    あはは。難しかったですか。。。
    まぁでも、最終的には「勉強しなさい」に向かってるんです。

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