2010年2月27日土曜日

自己実現ってなんだ

時たま聞く言葉に自己実現ってのがある。要するに夢とか希望とかが叶えられてよかったね、ということらしい。
でも、だからなんなんだと思う。
自己実現できたからなんなんだと思う。

嬉しい? そりゃそうだろう。だけどそれで終わりなのか。
何事かを達成して、嬉しくて、よかったよかったと。それで終わりなのかと。
終わるものかね。人生は寿命が尽きるまで続くんだ。そこには自己実現もへったくれもない。

だが、夢や目標に向かって張り切っている姿は素敵だ。
達成できるかどうかとは関係なしに、まぶしく光り輝いている。

要するに事柄じゃない。
自己実現に向かって努力していること自体が素晴らしいんだ。
それは男であれ女であれ、サラリーマンであれ経営者であれ、役者であれ専業主婦であれ、そんな事柄はあまり大事な要素ではないように思える。
「そうだ、これに向かってああしてこう工夫しよう!」というのが素晴らしいんだ。

そうして最終的には、三十三相に化身して衆生を救済される観音様の様に、なんでもオールマイティにできるジェネラリストな人間になるようにしていくんだ。それが僕の最終的な自己実現。
だから何でも中途半端に始めて、ひとかどの人間になることもなく、だけどもやめることもなく、ひょっとすると周りから認められることもない。だけど、それが素晴らしいんだ。

2010年2月25日木曜日

書きたいことがあんねん

でもなんかあまり時間が取れなくて書けないのねん。
どうもツイッターでちょこちょこと発言したり、他の人の発言を読んだりしてしまう時間の方が面白い。なので他の人のブログも巡るのも億劫になってきた。
一時的なものかもしれないし、これからもそういう傾向が続くのかもしれない。

だけどそれはそれでアリなような気がする。

書きたいことはまたいずれ。。。

2010年2月16日火曜日

またもやめまい

多分、昨日食ったヤキソバのせいだと思う。やだなぁ。。。

2010年2月11日木曜日

料理っていいなぁ

可視不可視に対する記事

私は男の一人暮らしだが、一応は料理をしている。とは言えカレーが多い。
だがカレーではあるが、具はふんだんに使っている。
今の季節なら白菜を入れることが多い。これが火が通ると大変水が出てくるので、カレールウの箱に書いてある作り方の通りにやったらべちゃべちゃして、カレースープになってしまうのだ。

先日はキムチ鍋を作った。
白菜・人参・ナス・カキ・キャベツ・大根・白滝を鍋に入れ、火を通すのみである。この時も白菜から水が大量に出てきた。鍋に野菜からの汁が溢れるように満たされ、水を足すことが無い。
こうして出来上がった水炊き状態のものに、キムチ鍋の素を入れる。火が通るのにちょっと時間が掛かるが、全体としては煮るだけの簡単料理だ。

そしてこの鍋ができる前に、納豆をこねたりするんである。
実のところ、料理というのは手順だ。

まず食卓には箸やスプーンを並べておくべきだ。これが最後になると、いつまでたっても食卓に並んだものが食べられないという悲劇を味わうことになる。やな味だ。。。
そして、冷めてもいいものやぬるくなっても影響がないものを並べていく。例えばサラダや漬物なんかだ。
そして熱いものなんかは最後に出す。これらが順々にでるように調整しながら料理をしていく。計算ができ、なおかつ手際がよくないと、とてもではないができることではない。これができる人は偉いのだ。

風水的には、台所は木火土金水が全て揃っているのです。料理がきちっとできるということは、その家庭内のバランスが整っているとも言えます。

2010年2月6日土曜日

やはりよく似ている


http://www.youtube.com/watch?v=UnEkVC6i9tM
Around and Around(Chuck Berry/1964)


http://www.youtube.com/watch?v=IJumY_r1LCg
つ・き・あ・い・た・い(忌野清志郎/1984)

チャックベリーの曲は本人のいい感じの動画が見当たらなかったのでローリングストーンズのカバーですが、他にもいろんな人のカバーがあって聴き比べてみるのもいいかもしれません。
そして日本でのカバー。。。? あれれ、作詞作曲が。。。ゴシゴシ、なんか見間違えだろうか?
ギターソロらしきメロディラインがアラウンド&アラウンドと逆になってはいますが、リズムやコード進行なんかが同じとしか思えません。

2010年2月3日水曜日

節分

「福は内~、鬼は外~」というのが一般的ですが
「福は内~、鬼も内~」というところもあるそうです。

鬼は、あんな恐そうな顔をしてますし、実際恐いのですけども、悪い存在というわけでもない。
鬼コーチとか鬼監督とか、その手の表現方法からも分かるとおり、厳しくするのも愛ゆえである。
愛ゆえに人は苦しむと聖帝も言っていたが、愛ゆえに厳しく当たるんである。

優しいばかりが愛ではない。ある時は心を鬼にして接することも必要なんである。それができないというのは、つまりは愛がないといことだ。
母親的要素と父親的要素と言ってもいい。また、陰と陽と言ってもいい。その両面が必要なんである。